当山は、古来より補陀落山という山に形が似ていることから観音様の霊場とされています。 補陀落山とは、伝説の観音様の住居の御山のことで、チベット語ではポタラといい、ダライラマ(観音様の化身)がお住まいをポタラ宮と呼んでいます。

永正年中(1504)の頃、当山伽藍、堂宇は傷み、観音様も京の都に修理へ出向かねばならない状態になりました。 ところが、上洛はしたものの都も不穏な情勢で修理もできないまま、観音さまはとうとう行方不明になってしまいました。ときは過ぎまして、小松島の元根井に住む彦太夫さんという人が船頭をしておりました。その彦太夫さんが、ある時、現在の兵庫県尼崎市の浜に、悪天候のため足止めされておりました。そこへ一人の小僧さんがやってきて「私を阿波の国まで乗せてください」と申し出ました。彦太夫さんは、おりしもの悪天候と見ず知らずの小僧を怪しんで追い返しました。しかし、翌日も、小僧さんは姿をみせ、「私を乗させてくれたら、阿波の国まで一時(現在の2時)で渡してあげよう」といいます。彦太夫さんも長い間足止めされておりましたので、一か八か出航してみることにしました。

尼崎の浜を出ると激しかった雨と波はやみ、追い風となり、未の刻(午後二時)に出帆すると申の刻(四時)に小松島の元根井の浜に到着しました。無事帰れたことと、そのスピードにおどろいた彦太夫は、小僧さんの乗っている船室にお礼に伺いました。しかし、目の前には小僧さんの姿はなく、観音様のお姿がありました。彦太夫はびっくりしながら急いで観音様の御上陸の用意に村の衆を集めてきました。村の衆が集まりますと、観音様の姿はすでに船上にはなく、浜の岩の上にお座りになっておられました。浜辺の岩の上ですの観音様は傾いて、右に左にゆれております。

 

彦太夫さんは、近くにあった石を拾ってきて傾きを直おしてあげました。この石は『助石』と呼ばれ、現在でも当山の内陣に安置されております。また、観音様を支えた石、観音様をも支えることができる石として霊験あらたかな石と言われ、体の痛いところ、悪いところをさすると、それが直ると言われております。彦太夫さんはその後、助石屋とあがめられ、現代も京都に子孫が住んでおられます。観音様は「彦太夫よ、渡してもらったお礼は何がいいか?」とお尋ねになりました。「この界隈から火事をなくしてください」とお願いしました。爾来「小松島に五軒以上の火事がないのは中津峰の観音様のおかげ」といわれるようになりました。   続く...。

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